サイバー時代の戦争について

 人鳥堂の飯島です。これから先、意見は私個人のものです。それと、例外もありますが、敬称は略させていただくことにしました。

サイバー時代に、起きる戦争とは
 あまり楽観的すぎても、と思うことがしきりです。現代にあっては、偶発的に、事が起きてしまうことというのは、果たして、無いのでしょうか。北朝鮮の動向についてのマスメディアの報道をみていると、今というときの危うさを感じざるを得ません。しかし、偶発的でない事態は、私たちの目に触れないだけで、表層のすぐ下を進んでいるのかもしれません。そんな、めまいのような印象を読後にもってしまうのが、谷口長世著『サイバー時代の戦争 (岩波新書)』です。

 ここで注意していただきたいのは、タイトルが、「サイバー戦争の時代」ではなく、「サイバー時代の戦争」だということです。サイバー時代の奇っ怪な戦争について、悪夢のような現実を紹介しています。アイゼンハワー大統領が退任の際の挨拶が、印象深く、現在に警鐘を鳴らしています。
 サイバーは万能か?という問いを突き詰めると、それは、「暗号は破られないのか」につきる、ということですが、最も弱い部分は、内部に人間の裏切り、ということになると、やはり、人間の問題に尽きることになるようです。
 第5章の「日本ならではの道」の、東日本大震災後の、石巻市の岸壁でのエピソードが心に迫ります。こんなに技術が進んだ現代で、なんで津波の規模や到達時間が正確に予報できないのか、とつぶやく被災者の言葉です。そして、サイバー攻撃などについて、いたずらに危機を煽るような報道についての違和感を著者は語っていますが、そこには、第1章と第5章を結びつける、ひとつの構図が浮かんでくるような気がします。それは、米国のやり方とでもいうのでしょうか、サイバー空間を第5の空間と位置づけて、緊張を高める一方、ロシヤとは緊張緩和の措置によって一定の枠組みをつくり、そして中国を規定の枠組みの中に引き込むという狙いです。TPPとよく似たものを感じます。2011年12月27日、当時の野田内閣が武器輸出三原則の緩和を正式に決定し、新基準のもとで、国際共同開発生産への参加という枠組みにも何か感じさせるものがあります。
 とまれ、今、読んでおきたい一冊です。


あたらしい仕事をはじめるときには、新しい、良いノートが欲しい
 ノスタルジーじゃないと思うのだけど、植草甚一著『ぼくは散歩と雑学がすき (ちくま文庫)』が文庫復刊ということになると、手に取りますね。

晶文社の新装版『ぼくは散歩と雑学がすき』が2009年に出ていますが、ここは、文庫の話で行きたいと思います。
 「あたらしい仕事に取り掛かるときは机の上に置いたノートブックがいいやつでないと感じがでない。」と言われれば、そうだそうだとなる。だけど、なんで、今、植草甚一なのかと思うと、やはり、団塊の世代がリタイアする時期となにか重なっているのだろうかと思ってしまう。と書いてきて、植草甚一の文体は、やはり伝染力が強いなあと、再認識してしまいますね。この本は、1970年に発刊されたものだから、ぼくが大学を留年した年で、高揚した季節をすぎていたけれども、まだ、ザワザワした感じが世の中に残っていた時期でもあったように思います。本書を手に、おいしいコーヒーを飲みに、喫茶店(カフェじゃないですよ)に行こうかな。

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