根源的ありようにも通じる?「息子介護」

人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は、私個人のものです。


小満 第二十二候『蚕 起きて 桑を食む』

 旬の果物は「メロン」だそうですが、メロンというと、つい、複雑な思い出を持っている学生時代の後輩を思い出します。彼は今、栃木県で会社の社長をしていて、活躍していますが、学生時代、ある先輩の家に行ったときに、当たり前のようにメロンを食べている話しに、根源的な?違和感を持ったようです。
 父の命日、墓参りの帰りに、立川の『イケア』に寄りました。こういう空間に行くと、浮遊感みたいなモノを感じて、あまり楽しくないです。しかし、思いがけない人に出会ったりもします。この日も、中野区の副区長さんにあいました。選挙の話題もチラリと出してみました。
 わたしは、ここ(つまり、『イケア』)で、チョコレートを買いました。脳と眼に好いような気のするものだったので。
 今日の珈琲は、『キリマン・グァテマラ』のブレンドです。『モカ』よりいいかもと思いました。


次の時代に突入した『高齢社会』の世相

 歳相応の老化の課題を認識している私ですが、昨今の報道を見ていると、『高齢社会』は、前期を終えて、中期とも呼べる段階に突入した都の実感を持ちます。かつての、高齢社会についての認識は、その課題を指摘し、確認する段階のものだったように、いま振り返ると思えます。認知症の行方不明者が一万人を超えるという現実は、そして、誰であったかが分かった人よりもわからないまま亡くなった人のほうが多いのではないかと思わせる数字を見ると、さて、そんな時代として『高齢社会』を考えていただろうかと、改めて、思います。
 いまや、課題は、目の前にある現実で、しかも、事態は、「本質的な新しい常識」を求めているようにも思えます。
 そんなとき、『「息子介護」という言葉を、あなたは聞いたことがあるだろうか。』という言葉で始まる本書、平山亮著『迫りくる「息子介護」の時代 28人の現場から (光文社新書)』は、「息子」である私にとっては、結構重たい本でもありました。



 朝など、車いすのお年寄り、それを押しているのは、明らかに息子、という組み合わせに良くすれ違います。『いずれにしても近い将来、「聞いたことがある」くらいだった「息子介護」は、身近な問題になる。』という著者の見立ては、すでに現実の問題になっていると言ったほうがいいでしょう。
 そのとき、妻や兄弟との関係はどうなったのか、親は何と考えているのか、仕事は、不慣れであった介護にどう向き合っているのか、こうした疑問に答える、「現役」の息子介護者28人へのインタビューをもとにした本書は、意外な知見に出会う場でもあります。たとえば、長男であることが必ずしも介護の引き受けの理由ではない、とか、「介護しすぎない」を基本方針とする息子介護者が少なからずいることとか。
 そして、著者の興味が、「中高年の息子としての経験」にあり、その経験を率直に語ることがほとんどなかった男たちにあるということに、自分のありようも重なります。「必ずしもすべての男性が夫や父になるわけではないのに対して、男性は男性である限り、必然的に誰かの息子であるはず」だから。息子であることの、ある意味、完結性が、息子介護にはあるのではないかと、91歳の母との、丁々発止の触れ合いを通じて思うことが多い日々です。
 息子であるというのは・・・・。


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