京都、いつの季節も良いです

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。


寒露 第五十候『菊の 花 開く』

晴れあがった空ですが、これで大気の状態は不安定なのだそうです。諺にもありますからね。菊は英語でchrysanthemum、らしくないのと発音が難しいのとで覚えていました。
今日の珈琲は「ブラジル」です。

「見るだけでは見えないものです。」 
 紅葉の季節がすぐそこに来ています。嵐山から嵯峨野にかけて、何回くらい紅葉を観たでしょうか。バスで清滝まで行って、坂道をゆっくり下りながらトンネルを抜け、あだしの念仏寺を過ぎ、途中で湯豆腐を食べたり食べなかったりしながら、渡月橋までもどってきたことを思い出します。

 JR東海のキャンペーンには、思い出深いものが多いですね。『クリスマスエクスプレス』や『シンデレラエクスプレス』など。「そうだ京都、行こう」と呼びかけられると、「そうそう、京都だよ、」と、条件反射にも等しく反応してしまうのです。コピーの巧みさだけではなく、『京都』のもつなにかが、私の中で化学反応を起こすのでしょう。それはきっと、日本中で、京都にたいして何らかの、育まれたものがあるからでしょう。ちょっと考えても、鹿児島の人にとって、山口の人にとって、高知の人にとって、会津若松のひとにとって、歴史と結びついた、それぞれの京都の因子があるのではないでしょうか。
 ということで、ウェッジ編『「そうだ京都、行こう。」の20年』です。


 
 広告、キャンペーンとしても秀逸であることに異を挟む人はあまりいないと思うのですが、それだけでないなにかがあるようにも思います(やたら、なにか、というあいまいな表現でもうしわけないのですが、まあ、そういうことなのです)。
 たとえば、09年・初秋の泉涌寺(せんにゅうじ)の、ハッと息をのみ、この場にいたらどうすればいいのかと迷うであろう、中秋の名月の写真や上賀茂の07年・春の写真など、もう過不足のない景色のに言葉を失ってみいるだけのようですが、そこにとどまらないところに、この「こと」の魅力があります。
 コピーライターが語ります。「あるとき、大先輩のコピーライターに言われました。『こんな完成された写真にコピーを載せるなど、怖くてできない』。本当にその通り。私も同じ気持ちです。しかし同じ頃に聞いた、ある生物学者の話には励まされました。『何も言わずに学生に顕微鏡をのぞかせると、何も見えないという。ところが、ある指針を与えると、一気に見えてくる。見るだけでは、見えないんです。』」と。
 そこで、キャンペーンの写真のなかに、コピーで触発されて見えてくるものをじっと探してみようと思いました。見えてくるのは、写真の中だけではなく、私自身の中にあるもの、ということになれば出来過ぎでしょうか。
 でも、こういうコピーもありました。「ここの桜のように 一年にたった一回でもいい。 人をこんなにも 喜ばせる仕事ができれば。 なんて思いました。」

 今年の紅葉は無理でも、桜の時期には、そうだ京都、行こう。

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