”おとこ”と、”庭師”の京都案内

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

小雪 第五十八候『虹 蔵(かくれて) 不見(みえず)』

 寒気が厳しくなってきました。日没の時間も早くなり、夕闇の迫る時間は、午後になるとあっという間に感じます。見上げると、寒気の吹き出しかそれとも飛行機雲か、一筋の雲がかかっていました。年賀状を失礼するとの喪中の便りも多くなってくる時期でもあります。

 今日の珈琲は、「インド」です。温度が肝心です。おいしく淹れることができました。

”おとこ”の京都案内はこういうのが一方のかたちか?

 女性によるものと、男性によるものと、京都本の場合、どちらが多いのでしょうか。まあ、数えたことはありませんが、女性の方が多いのではないでしょうか。目配りや感性から、京都というと女性に一日の長があると思えることも、男性ですがありますから。
 しかし、男性による京都案内も、めずらしくはないので、しかし、その場合、いかにもおとこの京都案内だなと思わせる典型のようなものもあります。
 たとえば、柏井壽著『ゆるり 京都おひとり歩き 隠れた名店と歴史をめぐる〈七つの道〉 (光文社新書)』などが、あげられます。



「京都旅」の新たな切り口
 京都はたしかに、ひとりでゆっくりと歩いてみるのが良いまちではあります。でも、著者のいうような、「発見」は、大概、だれかに話したくなるもので、素直な振りして、辛抱して聞いてくれる”相棒”とも歩きたいまちなのです。それに、「地元の京都人がふらりと入って、さらりと食べる店」を紹介していますが、こちらも、ひとりで食べて満足したら、次は、ふたりでしょう。京都中心部七つのルート、ほとんどクロスすることはあっても、たどったことのない「道」です。著者も、「よくぞまあ、これだけマイナーな場所を選んだものだと、自分でも呆れている。」というほどですから。このあたりが、おとこの性癖なんでしょう。「近年、京都旅は歪になる一方だ。それもこれも、メディアが画一的な京都を紹介し、その流れに乗ることを第一義とする旅人ばかりになったことが最大の原因だろう。」か否かはともかく、『観光』が日本経済の切り札の一枚というのが、私の「成長戦略」の柱の一本なので、「改めて京都の魅力を見直してみたい。」とする本書は、新しい切り口のひらめきにつながるかもしれません。ああ、行ってみたいお店、『招福亭』、地下鉄「五条駅」で降りて六条通りをいって、茶蕎麦を食べて、四条大宮から嵐電に、というコースが考えられるのですが、まあ、これは著者のルートの応用編でしょうか。五条の『佐乃竹』以来の発見だといいのですが。


『庭』に京都の真髄がある

 「京の真髄は庭にあり」と断ずる、庭師による京都の隠れ庭の案内本も、前掲書と同じ手触りの本、といえます。小埜雅章著『庭師とあるく京の隠れ庭 (コロナ・ブックス)』は、旧家の庭の格調や醸し出される品位ある世界の魅力を語ってやみません。いわゆる京都の名園、寺社のそれとは違う、町屋の「壺庭」秘奥を探る旅にいざないます。


 「庭の鑑賞はつまるところ『根源的なところから発する空間の感得』ということに尽きる。」その、まず最初の一歩を、本書で味わってみましょう。
 何代も続く旧家の名庭を、庭師の解説で、勘所を味わい堪能する、写真も大きく、「樂家」から「万や」までの十六、めぐる旅です。
 庭の用語集、隠れ庭のたずね方、各庭の見取り図もあるところなど、庭師ならではの一冊でしょう。
 表からはうかがい知れない”小宇宙”の空間が、京都の町屋には存在しているのです。写真眺めて、解説を聞いて、行きたくなりますね、京都。



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