東電は「国有民営」?

 班長の飯島です。7月になり、天候はまだ定まりませんが、時として暑く、夏です。

先日、小田原市に出かけました。実は。箱根に行こうとしたのですが、箱根登山鉄道のあまりの混み方に小田原まで戻ってしまったのが真相です。そこで、こんなお店を発見しました。実は本屋さんです。もうずっと、ここにあったのでしょう、と思うしかないような店舗兼住宅なんだと思います。奥に親父さんが店番していました。なんだか嬉しくなりましたが、商売として成り立つということが、この場合どういうことなのかは別として、生活が営まれていて、時々(すいません)本を買いに立ち寄る人がいて、厳然としてたっていることに敬礼ですね。そして、ここでの商いは本当は違うんじゃないかと思いながらも、平川克美氏の小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へを思い浮かべました。

挿入されている筆者の子どもの頃の写真と、目の前の本屋のたたずまいには、現実の時間を超えて、連続する感覚があったのです。筆者が小学生であった頃、学校が終わると家にランドセルを放り投げ、路地裏の駄菓子屋に駆けていく姿(私も同じでしたが)描かれていますが、筆者は自らに問いかけます。「今考えると、いったいあの路地裏の駄菓子屋は、どうして成立できたのだろうかと不思議に思います。」
 この本は不思議と、いま考えていることにつながります。『「進歩の差異」から「構造の差異」へ』では、芭蕉の「不易流行」という言葉をとりあげています。このつながりは、地方公共団体の「改革」の問題へとつながるのですが、それは別に取り上げるとして、「フクシマ」の復興について「もし、国家が何事かをなしうるとすれば、まずは生命の安全を確保して、原発事故の後始末をすること以外にありません。そして、工場誘致や、高台の宅地造成、外資誘致といったことではなく、現代のニューディールともいうべき公共投資などによって、この土地で生きていこうとしている産業に、仕事を回せるための支援をしてゆくことだろうと思います。」と語ります。今後「フクシマ」では、平川氏の言う「現代のニューディール」とナオミ・クライン
ショック・ドクトリン〈上〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く

ショック・ドクトリン〈下〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く

に描かれたような、災害地をフロンティアととらえ、そこへの産業誘致とそのための優遇策というふたつの流れが激しく争うことになるだろうという筆者の把握は、復興の最終的担い手は、「そこで生きている人々以外にはない」のですから、なすべきことは「現代のニューディール」の中身をはっきりさせることだと思います。
 そして、『「いま・ここ」に責任をもつ生き方』で、ここでの責任の意味は、本来責任のない「いま・ここ」に対して責任をもつということだとされ、グローバリズムのいう「自己責任」ではないとして、「自己責任論とは、たとえば株式の購入などでどんな損失を出したとしてもそれは、自分で行ったことであり、そもそも株式会社とは出資の範囲で有限責任を取る、逆にいえばその範囲までしか責任は追及されないということです。その有限責任すら負わない株主(東電の株主ですね)に対して、日本で唯一といってよい株式会社研究家の奥村宏さんは激しく糾弾していました。」と書いています。
 つながりが、いまここにいたるということでしょうか。小田原から帰宅のロマンスカーの中でつらつら連想を広げていました。
 さて、以下、東電の問題を考えてみたいと思います。
 
すでに述べたことも含め、意見の部分は私個人のものです。

大きすぎてつぶせないのであれば、分割せよ
 東京電力を含む9電力会社の株主総会が一斉に行われました。東電には猪瀬東京都副知事、関電には橋下大阪知事が出席して、それぞれの主張と述べましたが、提案は否決され、いまさらながらに、「法による整理を行い株主に責任を取ってもらう」方法もあったのでは、と考えた向きも多かったのではないでしょうか。
 かつて、公営電気事業を取り上げたときにご紹介した、奥村宏氏の東電解体―巨大株式会社の終焉には、今日の法人資本主義、会社資本主義の病根をあげ、大きすぎてつぶせないのであれば、解体、分割するという方法があるとの考えが述べられています。

 奥村氏は、10電力会社による地域独占の問題についてとりあげ、独占禁止法の除外規定に触れて「電力産業は果して自然独占なのであろうか」と疑問を投げかけます。
 自然独占が成り立つ2つの場合とは、1、資源保全環境保全基本的人権の保護にとって他者を排除するのが他の方法よりも適切と認められる場合、2、規模の経済の作用する限り、消費者の利け気を保証する場合、のふたつがあり、電力事業については今日では、どちらの場合も当てはまらないという室田武氏の論を引いて結論付けています。
 電力事業の自由化と公営電気事業については、すでにご紹介したところです。
 東電をはじめとする電力会社の株主総会についてはちょっと触れましたが、東京電力は、この株主総会優先株の発行を決定し、政府からのおよそ1兆円の資本注入をうけ、7月下旬からは議決権の過半を国(原賠支援機構)が握ることによって実質的国有化の段階に入ります。そもそも、「原子力損害賠償支援機構法」第41条1項、2項の規定からは、機構の行いうる資金援助は、原子力発電事故による損害賠償の履行にあてるための資金のはずで、そうであるからこそ、「この機構が交付金によって東電を支援できるのは賠償資金についてだけであって、廃炉など原発事業に絡む費用が膨らんで巨額損失が生じれば、東電は支援機構に資本注入を申し込むしかなくなる。だが、機構はその際に資本注入を拒んで、東電を破綻に導くこともできるのだ。」(国策民営の罠―原子力政策に秘められた戦い)でしたが、竹森俊平氏の期待実現のチャンスはなくなりました。竹森氏のこの本には、原子力損害賠償法成立のさまざまなエピソードが紹介されていて、登場人物も、我妻栄氏(民法の神様といわれる)や水田三喜男元大蔵大臣など、筆者が経済学者であることを考えても、多彩で、ミステリー仕立てでもあります。

「支援機構への拠出金負担分だけ、電力会社が電気料金をつり上げてよいという取り決め」も書かれていて、「原子力事故のリスクを電力会社が経営判断に確実に取り込むようにするためには、電気の卸売価格が競争によって決まるように電力自由化を進めるしかないことになる。」ともあります。ここでも、発電・送電・配電の3部門の垂直統合の分解という問題にいきあうことになります。
 とまれ、竹森氏の言うように、日本の電力会社は国有ではないが、国策をついこうしていると市場に認識されているが、東京電力については、実質国有化によって、国策民営から国有民営になったのでしょうか。国有民営の「罠」がどのようなものになるのか、それには「国策民営の罠」をしることも必要でしょう。

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