これでしょう 第3回 今に生きる遺産

 班長の飯島です。
 意見は私個人のものです。

微妙な感じ
 ふとしたことで、富岡製糸場をたずねたことがありました。そのとき、地元のシニアガイドの人も、世界遺産登録を目指していると言っていましたが、どうやら本格的な動きが出ていたようです。
 文化審議会は7月24日、「富岡製糸場と絹産業遺跡群」をユネスコ世界文化遺産に推薦することを正式に決定しました。もっともこれで決まるわけではなくて、政府としては、近く関係閣僚会議を開いて推薦を決定し、暫定的な推薦書を9月までにユネスコに提出することから、登録の具体的な動きが出てくることになるようです。

 それでも、審査には1年ほどかかって、早くて2014年ということだそうです。そこで、さっそく、群馬県富岡市では、「世界遺産まちづくり専門家会議」を発足させて、世界文化遺産登録を見据えてまちづくりの提言などを受けようと取り組みを開始しています。もっとも、会議では、「あまりにも世界遺産の前提に偏りすぎ。製糸場だけの街になってしまうのではないか」といった意見もあったとか報道されています。
 私も、製糸場をたずねた後に駅まで街を歩きましたが、まちづくりへの取り組みの意欲はわかるのですが、世界文化遺産のあるまちというのが、どのような文化遺産なのか、それがそのまちの暮らしにどうかかわっているのかが見えるまちづくりというのは、そんなに簡単なものではないと思っています。世界遺産=観光資源=活性化、みたいな方程式では、微妙に当てが外れることもあるのではないかとも思われます。
 
『富岡日記』にみる「武士の娘」の矜持
 富岡製糸場をおとずれた後に富岡日記 (《大人の本棚》)を読みましたが、先に読んでいたら、印象もまた違っていたでしょうか。

いや、あまり違わなかったのではと思います。日記を書いたのは和田英という松代藩の武士の娘、殖産興業への明治政府の先端プロジェクト「富岡製糸場」に女工として文字通り出征の気概で赴くのですが、読んでいると自然に工場の様子が浮かぶのでした。

 女工というと、劣悪な環境での過酷な労働と思いがちですが、ここは、医療から食事、労働時間など、フランス式のきちんとした管理が行われていたようです。富岡製糸場から故郷に戻る際に、場長の尾高惇忠が与えたという「繰婦(糸を繰る女工)は兵隊に勝る」という言葉には、強兵によってではなく、経済によって富国を図ろうとした思想が見れるのではないでしょうか。
 とまれ、富岡製糸場の上空は、見事に晴れた青空が広がっていたのを思い出します。世界文化遺産のまちには、その時代の人々の想いも遺構とともにあるのではないでしょうか。