様々な歴史認識について

人鳥堂の飯島です。意見は私個人のものです。

 参議院選挙が間近に迫りました。ということが全てではありませんが、歴史認識ということについて考える機会が増えました。歴史認識といっても、いったい、いつごろまでのことを考えているのでしょうか。普通には、近代ということになるのでしょうが、しかし、領土問題ひとつとっても、結構さかのぼって考えなければなりません。経済問題、特に、都市経済、金融については、中世、室町時代にも問題の淵源を感じざるを得ないということについては、先に述べたように思いますが、道州制については、地方主権道州制を考えようとすれば、中央集権型道州制とはどういうものかを反面教師として想定することで、より具体像が明らかになるということでしょう。その意味では、律令国家の成立と、その支配のインフラとしての古代道路の建設が参考になります。古代の巨大直線道路の建設については、現代とのアナロジーが感じられて、一層興味深いのですが、この分野では、近江俊秀著『古代道路の謎―-奈良時代の巨大国家プロジェクト(祥伝社新書316)』が、システムとしての古代道路の入門によいのではないでしょうか。

 より実践的に、古代道路を、地図や航空写真から探して、現実にその場に立ってみたいという、探偵派とでも言うような方にはこちらの本もお勧めでしょう。
 

 律令国家における「道」というのは、道だけでなく国も意味していたということで言えば、奈良時代における中央集権型道州制のシステムインフラが道路だったというのは、現代にとって示唆的でもあります。


ボケていない「中道」は可能か? 
 新幹線網の整備や、高速道路による国家ビジョンがつい最近も復権したかに見えることが、実は、歴史認識に、こういうジャンルも検討している所以です。
 まあ、それはさておき、いま言われているところの歴史認識の問題に立ち返って考えると、戦争体験のある年代と、そうでない年代では、歴史認識はどういうものになるのでしょうか。東郷和彦著『歴史認識を問い直す 靖国、慰安婦、領土問題 (角川oneテーマ21)』は、冷静ではあるが、深刻な認識を提示して、極めて参考になります。

 本書を読んで、ふたつのことに思い至りました。ひとつは、「左からの平和ボケ」と「右からの平和ボケ」しか、戦後の日本にはなかったのであろうか、ということにあわせ、果たして、「ボケのない中道」は可能かということです。そして、いまひとつは、なぜ橋下氏の「従軍慰安婦」発言が、これほどまでの国際的反発を招いたのか。その結果、いかに危うい安全保障上の問題を引き起こしかねなかったかということのグローバルな感情について、示唆しているということです。もっとも、この感情は日本国内でも同じように存在している、ある種普遍性を持ったものでもあることを、都議会議員選挙の結果が示したと言えるのではないでしょうか。戦後生まれの私の、歴史認識を問い直す一冊でした。

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