映画とバス、つながってはいないのですが、

人鳥堂の飯島です。意見は私個人のものです。

長部日出雄著『新編 天才監督木下恵介

 昨平成24年は、木下恵介監督の生誕100年にあたります。テレビ番組で、『二十四の瞳』がドラマで放送されましたが、何か、感じるものがあってのドラマ化であり、放送だったのでしょう。著者も、「感ずるところあって」『新編』として、もう一度世に問うことをおもい立ったといっています。その「感ずるところ」とは、「一度舵取りを誤れば重大な危機に陥りかねない時代の急流に差しかかった今、木下恵介の生き方と考え方と残した作品の数数には、極めて貴重な示唆が少なからず籠められているとおもうからである。」というのが著者の言葉です。

今だから共感することも多い
 私には、映画監督の評伝の新編を世に問う動機としては、映画が観る人に与える影響を考えるとき、この言葉にはある種の強さがあるように思えます。日本人が、長期的展望を持って時代の激流を渡りきっていくために、高尚であるがゆえに庶民には縁遠い学説などではなく、映画にこめられたメッセージを、我々が持つべき、広い視野と深い思索と強靭な意志の中に加えて欲しいとする著者のおもいが伝わります。
 個人的には、本書を手にとった動機は、実は、そういうことではなくて、鮮やかな初見の印象が今も残っている『夕焼け雲』がどのように語られているかを知りたかったからです。「何かを実現するためには、何かを断念しなければならない」。最近でこそ、「家業を継いで、自分の努力と工夫で新味を加え、以前にもました繁昌に導いた人を、平凡なサラリーマンよりもずっと恰好いい、とおもう若い人も以前より相当にふえているだろう」と著者はいいます。思い当たる人も何人かいる現代ですが、封切り当時は逆の世相だったのでしょう。それはそれとして、私は、本書の記述で、自分の印象を再確認することができたと思いました。
 そして、『笛吹川』です。中学校のときに、公会堂に学校で観に行ったような記憶がありますが、木下作品と黒澤明監督の『影武者』のいくつかのシーンが交錯していたのですが、その謎も解けた気がしました。詳しくは、ぜひ本書を読んでいただきたいと思います。かつて映画館で観た人もそうでない人も。


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平田俊子著『スバらしきバス』

 とにかく楽しい本です。
 東高円寺駅前から中野駅ゆきの関東バスに乗って、中央5丁目のバス停に差し掛かったときに、考えてみれば、いつもバス停のそばに住んでいたものだなと思ったのでした。実家は堀越学園前だし、結婚してすぐがここだったし、引っ越したときは公会堂下、野方では八幡前、マンションは宮下交差点だったし、京王バスの路線のところもありますが、多くは関東バスの路線ですね。
 著者も、中野区に住んでいるということで、バス経験はかなりの重複があります。都営バスの王子駅行きは乗りでのあるバスですし、「江古田の森」行きのバスのエピソード、「新代田駅前」へ記憶の旅、著者がバスに乗り、どんどん進む『妄想』にこちらもぐんぐん引き込まれる。とにかくバスに乗りたい人なのだ。最近の私もバスの愛好者になりました。病後は長距離を歩くと体の固有感覚のブレを感じることが度々なので、バスに頼っています。
 吉祥寺に向かう関東バスのはなし、笑えてほのぼの、バスが通過する景色と乗り込んでくる人への、推理と妄想の疾走が楽しい。しかし、人には決して悟られてはならないだろう。
 個人的には、バスの悦楽の要素の一つに、「一日乗車券」というのがあると思っています。足立区に通う用事があった時に教わって、都バスの一日乗車券を買って、何度も乗り換えて、楽しみました。『天神まで』に出てくるお母さんの「グランドパス65」という割引券で得した金額をカレンダーの余白で確認する気持ちはとても良くわかるのです。だから、私は東京都の「シルバーパス」は断じて堅持すべき施策だとの信念?の持ち主です。それにまつわることも書いて欲しかったようにも思えるのですが。
 それでも、「わたしは気ままな一人暮らしだ。といって満たされているわけではない。からっぽの心を抱え、自分をごまかしながら一日一日やり過ごしている。バスに乗ったからといってからっぽが満たされるわけではない。むしろ逆かもしれない。誰もいなかった車内に人が集まり、賑わい、また減っていき、最後は誰もいなくなる。なんて寂しく、同時に安らぐ光景だろう。からっぽだった場所が再びからっぽに戻るのを見たくて、わたしは何度でもバスに乗るのかもしれない。」というあとがきを読むと、この文章をなんと締めくくればいいのか、途方にくれるような気がします。面白いから読んでみましょう。


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