続編が面白いということは?

人鳥堂の飯島です。意見は私個人のものです。


小雪 『朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)』
 明け方の空に、か細い月が残っていました。
 最近、晴れた空のはるかを、遠く飛ぶ飛行機を見ることが多くなりました。羽田からの国際便の航路設定のせいでしょうか。青空を背景に、その小さな機影を見上げるたびに、旅の、いわくく言い難い情感が胸に流れ出すのを感じます。
 本日の珈琲はグアテマラです。
 先だってご紹介した『黒千石大豆』ですが、下の写真で見た限りではわかりませんが、実はとても小粒です。おかめ納豆の小粒くらいの感じです。したがって、乾煎りする時間も短めにして、豆茶にしました。乾煎りの時間によって、水色は、紫から赤まで、色が違っていますが、紫の方が短時間のものでした。これからの工夫でしょう。


「手の届かなさ」が旅の味
 読んでみたら、「続編」の方が面白かった、ということは、割とあるでしょうね。一方で、続きを読まなきゃ良かった、ということも。「正・続」と順に読んでそう思うことと、続編から読んで、正編があることを知り、それで続編が面白いということになるのは、作者の成長を示しているのでしょうか。
 宮田珠己著『日本全国もっと津々うりゃうりゃ』は、読み終わるまで、『もっと』が、第2弾の意味だということが分からなかった一冊で、はじめの本を読んで、作者の本音が垣間見えたような『もっと』が、もっと面白かったのでした。

 旅といえば、この年になれば、楽しいことだけでなく、人の世に通底する哀しみもあることを知るわけですが、牧水や芭蕉の思いとどうかはともかく、まもなく還暦であろう作者の思いも、また、通底しているように思えるのでした。
 たとえば。
 アジアの、夜に到着したホテルの窓から見えた少し遠い街のこうこうと明かりのついているあたりに惹かれ、なにかとてつもなく楽しい場所ではないかと思い、「しかし、次の日、そのあたりに出かけてみると、片りんもない、ろくに人もいない場所」でだったのが、「その夜、窓から見ると、またしても華やかな街が見える」。ついに作者は、夜にそこをめざして出かけてみると、そこは、「けばけばしい電飾にかざられた、屋台が数台あるだけの場所だった。」
 しかし、作者は思います。「だが、ふしぎなことに、カラクリを知ってからでも、遠目に見るその場所は魅惑的にきらめいていて、私はまたふらふらと誘われてしまいそうになるのだった。」という回想を、旅の同行の、テレメンテイコ女史と別れ一人ホテルに帰ってきた作者は、長崎のランタン祭りの街中に残って夜を楽しんでいるであろう女史が、ひょっとしたら楽しいことにであっているのではないかと、つい、考えてしまい、そして、その「悔しさ」が、その「手の届かなさ」こそが、旅の味わいだと知っている者の哀しみを、そこはかとなく、そして、「うりゃうりゃ」と語っているのです。「続々編」もありそうなので、期待をこめてうりゃうりゃしたいです。


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