サイバーリテラシーと情報倫理

人鳥堂の飯島です。意見は私個人のものです。


大雪(たいせつ)『閉塞成冬(そらさむく ふゆとなる)』
 一段と冬の気色が濃くなり、寒さも厳しくなってきました。この寒さはこたえます。

 ドミニカはようやくうまさが出てきているような気がしています。単に慣れてきただけかもしれませんが。


サイバー空間は、「私的」?、「公共」?
 最近のインターネットやソーシャルメディア関連の事件を見聞きしていると、本書の著者の次のような言葉に共感します。「若者たちはなぜ身近で起こっている出来事を、なんの考えもなく公共の場に引き出してしまうのだろうか」と。
 つまり、私的空間とインターネットでつながる公共空間との区別がなく、両者がストレートにつながっているのが若者という指摘は、そうだとしても、今や、若者よりはもう少し年代的広がりを持ち始めているのではないでしょうか。推測的なことしか言えないのは、今の私には、よくわからないからです。おっと、先を急ぎすぎましたね。こうした関心にピッタリなのが、矢野直明著『IT社会事件簿』です。

 1998年の「ドクター・キリコ事件」から2013年の「米政府による大規模諜報活動告発」まで、サイバー空間の出現とそれに伴う事件を扱った本書を読むと、こんな事件もそうだったのかと思うと同時に、今や、普通の社会インフラになっているインターネットを前提にした生活では、起きそうなことを予測しなおすことが大事になってきていることを感じます。
 ここの事件は本書を読んでいただきたいのですが、「制約がない」、「忘れない」、「個をあぶりだす」サイバー空間の特質を踏まえてどう対処すべきなのでしょうか。
 「インターネットが私たちの思考・感性に与える影響は、むしろ事件事故発生以前、すなわち大きな事件にまではいたらないが、インターネットを利用しているうちに人々の心の中に生じるドロドロとした情念にあるように思われる。」として、著者はこれを「デジタルのマグマ」と呼んでいます。インターネットにより、「次から次へと新しい情報に接することで、自分の将来の夢を描く機会が減っていく」ことに、子どもたちのネット依存の問題の深刻さがあると著者は指摘しています。この問題の対処には、人間の意志の力、Willpowerが鍵をにぎると著者は言います。それは、自分の目標へ向けた「やるぞ」という意志、そのためには誘惑や快楽などを退ける「しないぞ」、そして、目標を、夢をはっきりさせる「こういう人間になりたいという夢」が大事だとしています。とりわけ、夢を持つ事の大事さを説いています。
 それにしても、本書の中でも触れられていますが、私的空間と公共空間の重層的混乱で事件を起こした当事者が謝罪するのではなく、当事者が属する会社や組織が謝罪をするという構図にも、何やら割り切れないものがあります。

 著者は、マイケル・サンデルの著書からの引用を踏まえ、本来入り込むべきでない分野に市場と市場価値が入り込むことで、道徳規範に変化が生じるように、インターネットを日常的に使っていることで私たちの生き方の基本も、その深層において徐々に変わりつつあるように思われる、と、警鐘を鳴らしています。であるからこそ、情報倫理の確率が求められるという指摘をふまえ、あなたなら、私なら、どう行動するのでしょうか。

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