長谷川幸洋著『2020年新聞は生き残れるか』を読む

人鳥堂の飯島です。意見は私個人のものです。

『定点観測・陽だまり』

マンションの壁にミツバチが一匹とまっていました。ある日突然ミツバチがいなくなってしまう現象について、一代限りの野菜の花粉が関係しているのではないかという報告を書きましたがhttp://d.hatena.ne.jp/auditor28/20131203/1386032307、そのことをふと思い出してしまいました。あ、定点観測という意味は、家の前という意味です。

冬至『さわしかの角解(さわしかのつのおつる)』
 「さわしか」とは大型のシカの一種です。冬のこの時期に角が落ち、春に生え始めます。旬の魚は「アンコウ」、むかし、大洗海岸で真冬に「アンコウ鍋」を食べる会というのを企画しましたが、計画を立てるだけで、だれも「行こう」と言い出さずに終わった記憶があります。大晦日には「年越し蕎麦」を。今年は、淡々と、感謝の思いで単純明快な「蕎麦」を手繰りたいと思っています。
 珈琲は「カメリア」でした。

「オリンピック」と「調査報道」
 「インテリジェンス」が極めて重要になってきた一方で、カウンターバランスのための「調査報道」の質が求められると思いつつ、長谷川幸洋著『2020年新聞は生き残れるか』を読みました。

 このテーマは珍しいものではありませんが、しかし、それでも、なぜ「2020年」なのか?についての記述は、著者の立ち位置が、ジャーナリズムの世界に身を置いている人々が取り上げるテーマではあっても、ほかの人とは、ちょっと異なっていることを教えてくれます。
 2020年は、「東京オリンピック」が開催される年で、その時に新聞が生き残っているかどうかという設定の出発が、2013年9月8日がオリンピック招致が決まった日で、その次の日が「新聞休刊日」だったことに始まります。そして、大手新聞社では唯一例外的に読売新聞が、全国で、842万分の特別号外を全国で宅配したということの意味を問い、震災復興予算の流用問題のスクープのありようから、インターネットで生情報が入手できる時代になぜ、記者クラブ制度に安住する新聞記者がこのスクープをものにできなかったのかが示されます。
 これまでも、記者の怠慢という角度の論はありましたが、著者の指摘は、図らずも、これからの「調査報道」の姿を期せずしてバックグランドで浮かび上がらせているなと感じさせました。あたかも、たった一匹陽だまりにとまるミツバチになんとはなしの不安を感じたように。
 「東日本大震災復興特別会計歳入歳出予定額各目明細書」をきちんと読めば、使途と執行率がわかるので、国会議員からこの問題が指摘できてもよかったのだと思いましたし、予算・決算資料は企まずして本質を浮き上がらせることがあるというのは、私の乏しい経験でも実感できることです。
 著者は、発表情報の2次加工が大事と指摘します。たとえば、放射線情報でも、「汚染地図」について、「私が、DOE(米エネルギー省)の作った汚染地図の存在を知ったのも、実はネット情報だった。」と著者は語っていますが、「隠された情報を暴きだすのは、もちろんメディアの重要な仕事だ。と同時に、公開された情報を適切に整理分析して提示すれば、政府が実際に何をしているのか、かなりの程度あきらかにできる。復興予算の流用問題が典型的だ。」というのは、まさに「調査報道」の原点だろうとも思えます。そのための努力は、職業ジャーナリストにとって、これからは不可欠のものになっていくだろうと思います。「ビッグ・データ」はビジネスに関係してあるだけではなく、ジャーナリズムのためにも有用なのでしょう。
 だれでも、その気になれば、メディアを手にして、ジャーナリストになれる時代、それがさらに加速された2020年の東京オリンピックの時点で、「東京五輪が決まっても、新聞を発行しないで平気でいられる新聞は」、果たして生き残っているでしょうか。

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