“楽園”の読書になりそうな二冊

人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は私個人のものです。

定点観測・東天

 月が印象的な日々が続いて、確かに春の空になってきました。

啓蟄 第九候『菜虫 蝶と 化(な)る』

 蝶は、いまだ見ていませんが、蜜蜂は見かけました。

今日の珈琲

 「キリマンブレンド・炭火」ですが、水温はやや高めで淹れています。慣れたころに使い切るというリズムです。


自分が写真機になるということ

 「子供の僕は、曇った日には自分ではなく、晴れた日には自分だった」、「そして、「晴れた日の僕は消滅しなかった」ということが、自分が写真機になるというのは説明が要ります。いえ、片岡義男著『私は写真機』のことです。

 写真と文で構成されている本が好きです。写真の「絵説き」があるようで、どういう写真の説明かということではなく、なんでこういう絵説きをしたのかがうかがえて、簾の向こうに姿が垣間見えるようで惹かれます。
 さっきの続きですが、自分が受け止めた現実、つまりリアリティはそれこそが自分なのだ、という認識があるから、写真に撮ってフィルムの乳剤層の中にリアリティに変化させつつ閉じ込めるがゆえに、「撮るか撮らないかは、気づくか気づかないかであり、気づくとは、自分が写真機になることだ。」というわけです。
 それにしても、コダクロームではないかと思われる暖色系の「色」で表現された、ジタンのケースや、刑事コジャックが咥えていたようなキャンディー、雑誌のグラビアなど、「あのときのあの光はこんなだったのか」という驚きは、現実の昼下がりの太陽の光が、あの三多摩の幼稚園の教室の光と同じではないか、と不意に思い出せるのに似ています。


iPadがもたらすもの

 実は著者に興味があって本書を手に撮ったというのが真相です。鶴野充茂・西村正宏著『iPad仕事術』がそれです。


 あまた類書がある中で本書を選んだのは、先に記した理由ですが、それだけでなく、「なんでもiPadで済ませようとしない」とか「紙を排除しない」とか「記録のための記録には意味がない」という指摘とともに、「メガネもコンタクトもいらない」ということが書いてあったりすることです。
 便利なアプリについての基本線の紹介と失敗事例があることにも素直に共感できましたが、この、視力についての記述は、裸眼の喜びを感じられるということで、本当に納得です。






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