いまどきのテレビの変遷をたどる
人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は、私個人のものです。
春分 第十候『雀 始めて 巣くう』
椿や金木犀の大ぶりな木のなかで何羽もの雀の鳴声を聞く時があります。植木職人の駆け出しのころ(今はやめているのですが)剪定中に小鳥の巣を見つけたことが何回かありました。さて、旬の野菜は玉葱とか。いろいろと食べ方がありますが、ザクッと大きめに切って、コーンビーフと単純に炒めた物など、ほんの少し醤油を加えて。
今日は、風は冷たいですが、晴れ渡った天気です。珈琲も少し熱めに淹れました。「キリマンブレンド・炭火」も終わりかけています。次の珈琲を買えるといいのですが。
「情報環境としてのテレビ」は、私の場合、今がそうなのかも
「テレビ」について、少し考えてみたいと思っていました。というのも、最近の私は、「テレビ」で人や風景に出会って、「おもいつき」を刺激され、「想いの意図(糸)」が繋がることがしばしばなので、はて、この環境にくるまれている自分の位置を測るうえでも、ちょっと考えてみようかと思ったのです。
きっかけは、北山修氏と萩本欽一氏の出演している番組ですが、そこに至る道筋として、大見崇晴著『「テレビリアリティ」の時代』を読みました。
「戦後民主主義とエンターテインメント(商業主義)を両立しようとする「テレビリアリティ」という概念を中心に、日本のテレビバラエティ史をたどる」本書には、私もそうだった『テレビ・ジプシー」(テレビを持たない家庭の子供が、テレビを観るために友人や近所の家庭を渡り歩いていることを皮肉った言葉)から始まり、視聴者との双方向性を切り口に、バラエティ番組の越し方が語られています。そして、インターネット時代における行く末についても。
萩本欽一、タモリ、ビートたけし、明石屋さんまの次の、この時代に必要たされる才能が、ゆっくりと、インターネットを使いこなす世代から誕生するだろうという予測で締めくくられる本書はまず、「テレビ」について考えるとっかかりにふさわしいと思いました。
もちろん、「預言者マーシャル・マクルーハン」をはじめ、ブレヒト、マルセル・デュシャン、高橋留美子やエヴァンゲリオンが登場する捕論も面白いです。
Amazonでどうぞ