思考の背骨は「ことば」だ!

人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は私個人のものです。

春分 第十候『雀 始めて 巣くう』

 同じように見える空も、微妙に違います。今朝は暖かい空気でこころも穏やかです。もとろん、世界は、そんなことはいていられない様々な出来事が起きているのですが。今日は、珈琲豆が切れて、『カフェ・グレコ』です。学生時代の珈琲事情を考えれば、ましですが。


言葉がゆらぐ、社会がゆらぐ

 藤原智美著『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』を、ネットで紹介することの矛盾、などということも考えてしまいますが、「ネット時代の到来で書きことばの根幹が揺らいでいます。それは国家の揺らぎであり、経済の揺らぎでもあり、社会の揺らぎでもあります。」という著者の問題意識を踏まえると、読んでみないというわけにもいかなかったのです。


 ことばには、「話しことば」、「書きことば」、そして今や、「ネットことば」があるということでしょうが、メールで使われる「絵文字」などのことを考えると、話しはいろいろな所に飛んで行ってしまいますが、紙と空気とネットと、媒体が違うだけではなくて、インターネットは媒体であると同時に現実であり(昨今の出来事を想うと、私には、人々に仮想と受け止められているとは、とても思えません)、つまり、フィジカルな現実とネットな現実とがパラレルに存在する、そして時に交わったりして事件が起きる「パラレルワールド」のように思えるのですが、それはさておきます。というのも、「幼稚化する政治家のことば」の例として、「オノマトペ(擬態語や擬音語)の多様」をあげています。それによれば、1990年から現在までで、約1万4千回から約3万8千回へと3倍近いどうかぶりとか。さらには、「党綱領の軽視」、あるいは「党綱領の不存在」などに、書きことばの「衰弱死」を指摘してる部分や、憲法が国家と近代社会を支える書きことばであるという認識からみる「96条」問題など、興味深い切り口が盛りだくさんだからです。
 

ビットコインの見立てとカフカ的世界
経済ということでは、紙幣は「印刷文書」であり、信頼を軸に、「紙幣という『文書』が支配する経済社会」の出現と、最近事件になった「ビット・コイン」に象徴される電子マネーの登場は、著者の見立てをフォローするものでしょう。
 読書が「朗読」から「黙読」になったのは、話しことばと書きことばの分化が起きたからだといいます。それが「個人主義」と呼ばれる意識の変化につながり、書きことばが、標準語による国民国家の基盤を提供した、ということでしょうか。
 さて、これから私たちの社会はどこへ向かおうとしているのでしょうか。著者に、「あなたは今日ペンで文字を書いたか?」と問われて、10年後には、何と答えるのでしょうか。著者のいう「カフカ的世界」にも思いを巡らし必要があるのかもしれない、と本書を読んで思いました。新しいメディアがことばの世界を揺るがし、その上に建設された国家というものもやがて抽象化された存在になるというカフカ的世界の見立ては、グロテスクではありますが、「ハチドリ」の大きさの無人偵察機の飛び交う世界と親和性があるように思えます。イチロー選手とマーシャル・マクルーハンの「拡張」概念についてのエピソードに加え、「ネットというメディアのメッセージ」の意味するところを、今という時点で考えておきたいと思いました。本書の巻末、アンネ・フランクの「日記」を書く行為が、自分を支え、生を営む行為として、生き延びる力を与え続けたことが記されています。そして、読者は、最近の事件の意味を再考するかもしれません。


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