あのとき同じ何をみていたか?

人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は私個人のものです。


春分 第十一候『桜 始めて 開く』

 発達した低気圧の影響で、荒れ模様の天気という予報でしたが、朝はしっとりと落ち着いた雨でした。近所の桜にはどうだったのでしょうか。
 今日は、天候を勘案して、「マンデリン・フレンチ」は、やや濃いめを目指しました。


 「青春はもえる陽炎か」吉田拓郎の歌が聞こえてくるような気がしました。『天才脚本家 梶原金八』をみているときに。青春というにはやや、とうがたった、山中貞雄をはじめ八人の仲間たちの「疾風怒涛」の青春記のようでもあり、「やがてかなしき鵜飼かな」というようでもあり、と思っていましたら、「降りてくる」というのはあるのですね、樫原辰郎著『海洋堂創世記』にばったり。

 海洋堂は、昭和39年、東京オリンピックの年に誕生した模型店、その後、ガレージキットと呼ばれる「自主制作=インディーズのプラモデルである。大規模な工場で生産されるプラモデルを、町の小さな工房や個人の家で製造し、ごく親しい友人にのみ配ったり、イベントなどで少数を販売する」というものです。
 原型師と呼ばれる”職人”が活躍する、世界でもありますが、海洋堂はこの世界で、知られた「聖地」と呼ばれる会社ですが、近くは「食玩」でより広く知られているようです。創世記のころ、そこでは、まさに、「造形狂の会」という名のとおりのメンバーたちによる狂乱の日々が繰り広げられていたのでした。「君もメーカーになれる」という言葉には、昨今の3Dプリンターとパソコンによる新しいメーカーズの時代が喧伝されていますが、それとは趣が異なる、「熱狂」という世界であったろうと思います。
 私も、ベビーブーマーの世代として、良く知られた時代を生きて、一度は狂乱のるつぼの端っこにぶら下がったことがあるので、思うのですが、「もちろん、行方の分からない人も大勢いるし、顔は覚えているけれど名前が思い出せない人もいる。そういう人たちとも、生きていればいつかまた会えるかもしれない。」という言葉には共感し、ケンちゃん家の二階に下宿していた、コイデやユウイチ、ヒロヤス、ムラカミ、イイダと団子になって走り回っていたころを思い出すのです。
 「歴史は繰り返すと言うけれど、僕が見たのは、おそらく一度しかおこりえない出来事でした。」という青春グラフティー、読むと、自分の「あの時代」が蘇ります。


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