寝返りうつのが「壁際で」じゃなくて「壁際に」のわけは?

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

芒種 第二十五候『螳螂 生ず』

 昨日から東京も梅雨入りということです。芒種の芒というのはイネ科の植物の穂先で、穀物について、種まきや稲の植え付けに適した時期ということでしょう。
 
 今日は、キリマンジャロとグァテマラのブレンドでした。


オフコースの歌はなぜ透明感が高く感じるのか

 日本語というのは、私にとっては母国語なのですが、謎はたくさんあります。そして、謎の一つでもわかると、いままでみえていた景色が、少し変わります。山田敏弘著『あの歌詞は、なぜ心に残るのか─Jポップの日本語力(祥伝社新書)』を読むと、カラオケのときに、伝わり見えるものが違うかもしれません。


 たとえば、「で」と「に」という格助詞をとりあげ、高橋真梨子の『桃色吐息』(作詞 康珍化)の歌詞「明り採りの窓で月は欠けてく」を題材に、「これを『窓で月は欠けてく』とすれば、その『窓』の中だけで変化が生じていることがあらわされるだけだが、『窓に』と言うことで、欠けていく『月』が『明り採りの窓』に見えてくる」という格助詞の使い方で、歌詞の想いを読み解いています。

 本書を読んで、私は、学生時代によんだ、福田恒存の「芥川龍之介論」のなかの、「の」の使い方についての論考を思い出しました。

 それはさておき、オフコース時代の小田和正が、あえて「僕」や「君」を多用して歌っていることについて、「たとえば、『僕は君が好きだ』と言う代りに、『君のことが好きなんだ』とすれば、『僕』が主語であることは自明となる。それでも小田和正は『僕』や『君』を連呼し続ける。その理由は、彼の歌が、客観的に事態を描くという手法を用いている点にあるのではないだろうか。」と指摘しています。
 自分自身をも客観的に描くことで、「感情のどろどろした部分はそぎ落とされ」、「楽曲が透き通って」いき、「小田和正の澄んだ声」に加えて、オフコースの歌には「透明感」を強く感じることになる、というわけです。

 考え抜かれた歌詞が、結局は心に残るのでしょう。



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