「ジンイチ」ではなくて「シンイチ」を読む

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。


芒種 第二十七候『梅の子 黄ばむ』

 垣根越しの梅の木に、実がいくつもなっていて、確かに黄ばんできています。この時期、果物は、枇杷や桜桃など、おいしい時期を迎えます。もったいないことに、収穫もしないで、道に落ちた実を車が踏みつぶした跡など見ると、興ざめですが。


没後13冊目の新刊とは

 かつて、「橋」にまつわる本を取り上げたことがありましたがhttp://d.hatena.ne.jp/auditor28/20140514/1400031792、老朽化した橋の調査などと言う現実的なことも気になりますが、そもそも橋というものが、その物理的存在を超えて、あれこれと考えさせる何かの象徴や意味を隠しているような気にさせるものです。「あっち」と「こっち」とか、「渡る」、「とどまる」、「来る」と「去る」、人生の何事かを類推させるような暗喩に満ちているともいえます。
 で、草森紳一著『その先は永代橋』です。



 植草甚一と、イメージとしては混同しがちですが、それはともかく、著者没後13冊目の新刊と言う本書、タイトルを見て、直ちに手にとったのは、すでに述べた通りの理由です。没後13冊目の新刊と言うのは、読んで知りました。どうしてそういう、希有なことになっているのかについては、本書の跋をお読みいただくとして(草森紳一の著作は、あとがきではなく、跋となっているのが多いようです。たとえば、大倉舜二氏の友情あふれる跋の『フランク・ロイド・ライトの呪術空間 有機建築の魔法の謎』は、本文はもちろんですが、跋がとてもいいのです。)、橋にまつわるそもそもについて、「江東区側の永代橋のたもとへ住むようになったのは、一九八二年の夏であるから、かれこれ十五年の月日が流れた。以来、毎日のように永代橋の周辺を散歩し、隅田川を見ながら暮らしている。」と書き出し、橋との生まれながらの因縁を言う著者に従って、流れる川もを見るともなく眺めるという時間に身をゆだねるのが本書ですが、しかし、著者には、『荷風の永代橋』と言う巨冊があり、『橋の作法』というものが説かれ、なみなみならない、著者と水辺の関係をうかがわせ、さらに、本書では「雑文とは世界のこと」を堪能します。たとえば、『永代橋誕生をめぐる元禄の黒い霧』では、まず、小津安二郎が冒頭に姿を現し、明大校歌作詞の小玉花外が登場し、永代橋架橋にまつわる土木工事をめぐって、徳川綱吉紀伊国屋文左衛門柳沢吉保などが入り乱れて、話は佳境に入ります。
 
 時間の融通がきく人には、おすすめの一冊です。
 
 

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