「点火装置」としての広重の風景画

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

小暑 第三十三候『鷹 すなわち 学習(わざをなす)』

 朝の曇った空は、いつの間にか晴れてきました。このぶんでは午後からは暑くなって、天候は不安定になるのでしょうか。それとも、上空の寒気は移動したのでしょうか。
 今日の珈琲は「ブラジル」です。最近はブラジル産の珈琲豆も種類が豊富になってきているようです。時代でしょうか。やはり、珈琲らしい珈琲の味がします。



 「日本再生」とか「日本を取り戻せ」とか、「もういちど日本」とかの掛け声は、じつは、言っている人の思惑とは別に、素直に考えると、「どこかよそに行ってしまった日本を」という位置づけではなく、むしろ私たちのなかのことではないかと思います。「いまや西洋的感覚に半分以上育てられている私たち」(赤瀬川原平)が、知らなかった日本について、新鮮に認識することが、ことの本質ととらえるべきではないのか、と思えるのです。再生する、取り戻す、もういちど確かめる日本は、私のなかでのことだから、他者に対するナショナリズムではないのでしょう。

 さて、赤瀬川原平著『[新装版] 広重ベスト百景 赤瀬川原平が選ぶ』です。



著者もまた透けて見える分析と文章に泣けます

 なぜ、いま広重なのか、北斎ではないのか、いろいろな疑問を抱きつつ、本書を手にとって、著者の言葉に耳を傾けよう。「日本にはこんな絵があったのか。ほとんど知らなかった。というような、無垢な目で見てますます面白いのが広重の風景画である。」
 風俗画ではなく、風景画であるところに、一つの意味を見つけるのですが、同時に、広重における「絶景」を切り取る構図について、「広重の視角」に潜んだ「現代のカメラアイ」を指摘するところは、著者のカメラ嗜好が出ているとも思えます。
 「定型にはまっただけの絵に対して、目はもっともらしくそれを見ていても、本当のところはぐっすりと眠り込んで起きてこない。」、それを、「パチンと手をたたく猫だましではないが」、「目の意欲に点火する」、「頭の常識以前の視角」を見せることでは、北斎もそうですが、広重は天才を発揮しているというわけです。

 著者らしい遊びの工夫は、うーん、と唸る度合いに応じて各景ごとにベスト3をあげているところでしょう。『夜景』の前説で、例によってカメラのアナロジーから、「目には限りがあっても、人間の五感の助けで目が利いてくる。むしろ感覚が伸び上がるように働いてくる。」というところが重要で、この「伸び上がる」ような感覚と夜の「ふんわりとした不安」から湧いてくる感じがたまらない、ということになるのでしょう。

 「雨」に特別な想い入れのある私としては、『雨景』はどのように取り上げられているのか気になるところです。「さてしかし、天から降る雨を、線として絵に描くのは、日本だけだという話を聞いた。」とあり、「目で見た通りの雨の部分的描写を超えて、人間が雨全体に感じるもろもろが、そのまま広重の絵の中から人割と伝わってくる」。広重の浮世絵構造を、人々のなかにすでに蓄積された描かれるそれぞれの人にとっての景色を発火させる「いわば点火装置」と喝破する著者の言葉は説得力があります。
 だから、「点火装置の広重のえがあらわれて、そうだ、雨って本当にこうだなあと、それを見る人の気持ちのなかに雨が広がっていく。」、そうですよね。

 そうそう、北斎について、著者はあとがきで「北斎と広重は偶然に一度だけ会ったことがあるらしい。」とだけ書いています。


Amazonでどうぞ