「20年後」を見据えた議論とはいかにして可能か

 ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

大暑 第三十六候『大雨(たいう) 時行(ときどきにふる)』

 ただただ、青い空が広がっています。それでも、やはり、夕方になると遠くで雷鳴が響きます。
 今日の珈琲は、「グァテマラ」です。


「開かれた対話」と「内向きの共感」の違い

 「輿論」と「世論」についての著書はつとに知られるところですが、その著者、佐藤卓己著『「災後」メディア空間 - 論壇と時評 2012-2013』を読んだ当初、「災後」は「最後」のことかもしらん、と思ったのですが、それは考え過ぎだったようです。



 本書を手にしたのはちょっと前だったのですが。
 「熟議」、議論を続けることの必要性は、「ネットの即時性」が、すぐに結果を求めないと気が済まない、「ガマンできない」人々を大量に生み出し続けている現状を一方に見据えると、ますます強く感じるようになりました。

 ここから、20年の時間軸で、物事を考えることが必要だろうというのは、その通りではあるのですが、それに耐えられない体質になりつつあるとすれば、さて、足場をどこに置けばよいのでしょうか。
 「輿論は開かれた対話から生まれ、世論は内向きの共感から生まれる。」とする著者の、次の議論、「そもそも、外交の言葉、あるいは輿論として『正しい国』はあっても、『美しい国』はありえない。敢えて、わかりやすい例えで考えてみよう。『正しい日本』が『悪しき北朝鮮』を批判するという構図ならば、国際政治の議論の俎上にはのるだろう。(中略)しかし、『美しい日本』が『醜い北朝鮮』を非難するという図式は、戦争プロパガンダとしてはあるだろうが、その真偽を論じる余地がない。美醜を基準とする世論と、真偽を追求する輿論を意識的に区別する必要はここにも存在している。」を踏まえて、ことの判断に向き合う必要があるということだと思います。
 20年後の世界とアジアの情勢、各プレーヤーの盛衰を、人口、資源、経済、テクノロジーなどを冷静に分析し、日本がそのときまで、二つの「保障政策」、「社会保障」と「安全保障」の財源を維持する道筋の構想は、もちろん、「輿論」の側の仕事になるのでしょう。


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