「憂食論」を読むと、日本は大丈夫じゃないのでは、と思う

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

立秋 第三十八候『寒蝉(ひぐらし)鳴く』

 今日の珈琲は「ブラジル」です。

 さて、前回に続いて、「食」について考えてみたのですが、見えてきたのは、もっと本質的と思える歪みでした。

取り戻すべき日本というのはこうゆうことでは?
 日本農業の問題ではありません。まして、食糧安全保障の問題でもありませんが、まぎれもなく日本の「食」に現われた、幼さ、軽薄さという、日本文化の基本に係る問題を取り上げているように思いました。柏井寿著『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』を読むと、あまりにお粗末で幼いのは、地方議員に限るものでないことを知ります。根っこは一緒なのではないかと思えてきて、筆者が憂いているのは、食というよりは日本人のありようではないかと思えてきます。



「こだわり」はいらないと思います

 私にはごく普通のことが書いてあるように思えるのですが、それが「痛快!!激辛」の『食』の批評になるところに、「食」に示現している日本のあやうい、あまりにおそまつな現状があるように思えたのでした。
 たとえば、「こだわり」ということ。よく、こだわりの名店なんて言いますが、私は、いつも変だと思っていました。筆者の言うように、「そもそも<こだわり>というのは、悪しき意味を持つことが多い。」し、「こだわり、という言葉を頑な、に置き換えてしまっている主人のいる鮨屋に入ってしまうと、悲劇が待ち受けている。」というのも、うなずけます。こちらは、おいしいお鮨を食べたいのであって、自己陶酔型のこだわりにつきあいたいわけではないし。
 「おもたせ」の勘違いも、なんということかと思いますし、ラーメンに至っては、「伏せ丼」というのがあるようですが、ここに書いてあることを読むと、病巣の深さに、憂いが深くなると思います。「”大丸さんの紙袋”が教えてくれたこと」を読むと、京都の楽しみ方について、「たしなみ」という言葉を思い浮かべました。そういえば、筆者は、京都案内人としても知られています。あとがきにあるようなお店を、一軒知っています。六角堂を曲がってちょっと行ったところですが、いつも気持ちよくお店を後にします。そんなことも思い浮かんで、行きたいなあ、京都。
 

 ごくミスマッチのような装丁の、じつはそうではない、筆者の、小説もあります。



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