『須賀敦子の方へ』を読む

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

大雪 第六十一候『閉塞(そらさむく) 成冬(ふゆとなる)』

 寒いです。朝は格段に寒いです。昨日、東京警察病院MRIをとりました。その後の発症はみられないということで、ひとまずはやれやれでした。
 今日の珈琲は「ブラジル」です。普通の強さ、とでもいうような、存在感が「ブラジル」にはあります。


”霧”に浮かんでどんな景色がみえますか?

 このジャンルの書籍の紹介は得意ではありません。しかし、紹介してみることにしました。
 そんなことを考えていて、思い出したことがあります。千葉の言い方でしょうか、祖母も母も、「しみじみしない」と言って、叱ることがありました。「心に深くしみいる様」とでもいう意味を、人の心のありようにあてて使うということですが、妙に納得できる使い方でした。
 読書の楽園にも、「しみじみ」とした心のありようも、楽園の一つとしてあるでしょうから、松山巌著『須賀敦子の方へ』を読んだご報告です。





 いつもとは、心の、どこか違う次元がうごめく本というのがあります。私にとっては、本書がそういう分野の一冊です。普段はちらっとしか立ち寄らない、文學的な分野ですが、須賀敦子は例外のひとりです。私は、須賀敦子を、槇文彦の著作を通じて知りました。確か『漂うモダニズム』であったかと思います。


「思いがなければ言葉は生まれないが、思いだけでは文章は綴れない。作家は一つの作品の書きだしには考え込むのが常である」と、松山は書いています。こういう言葉に出会うとこれは作家論かとも思うのですが、別の、たゆたう松山の想いそのものが、かぎとれそうな、松山の作品とも思えます。
 本書が、「追憶」であるようで、そう言い切るにはこぼれるものがあるという彼の主張からすると、そうではないのかとも、レクイエムにも思え、評伝でもあるような、松山が語る須賀敦子の姿に、平凡な物言いではあるが、松山の「しみじみ」としたものを感じずにはいられません。
 かつて、霧の深い深夜、したたかに酔いしれて中野駅から坂を上がり図書館の方へと、自宅への道をたどっているときでした。線路際の時計塔だけが、たちこめた霧に浮かび上がっている景色をみて、不思議な、「しみじみ」した想いにとらわれたことがありました。なにか、心に自ら訪ねることがあるようなときには、思い出す心象風景でもありました。いつしか、その景色を思い出すような心のありようもなかったのでしょう、忘れていたのですが、本書を読んで、久しぶりに、霧に浮かぶ時計塔を、鮮やかに思い出しました。

 今日は写真も、少し古いものにしました。

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