法律をつくるということにひそむ深淵

ぺんぎん堂の飯島です。意見は、私個人のものです。

啓蟄 第七候『蟄虫(すごもりむし) 啓戸(とをひらく)』

雨は冷たいようで、この時期ですから、突き刺さるようではないという、あたりを見回しても、桜の枝のふくらんだつぼみが目につきます。春が始まったことは間違いないようです。
今日の珈琲は「モカ」です。

依然として、20世紀が終わっていない

 21世紀もかなり進んだように思いますが、世界は、まだ、20世紀が完全に終わっていないことを知らされることがあります。最近読む、北欧やヨーロッパのミステリーからそういう刺激を受けることが多いように思います。
 本書、フェルディナント・フォン・シーラッハ著『コリーニ事件』を読むとまさにそう感じます。


 ドイツの法廷ミステリーですが、著者は現役の刑事弁護士であり、しかも、実に簡潔で意味がとりやすい文章に、安心してどんどん読んでしまいます。テンポの良さは、新人の弁護士が、被告の犯行の動機を探るために調査に赴く場面など、情景が映像として目に浮かんできました。さらに、様々に錯綜する登場人物の関係には、著者の人生と経歴とが深くかかわっていることを想像させます。
 もちろん、ドイツ伝統の、修養小説の趣もあり、老練な弁護士が敵役でありながら、導師として、若者を導いていく筋もあります。そして、20世紀はつい昨日で、人間性を疑うような事実は、すでに綺麗に清算されたわけでもなく、一皮めくるとグロテスクとも言えるような諸相が浮かび上がってくることを感じます。
 罪や犯罪とは何なのか、一本の法律がつくられることで、何がどう変わっていくのか、そこに働いた人間の意志とは何だったのか、様々に考えさせられます。そして、この小説が示す不合理な事態が、現実を動かしたということに、希望も感じるのです。
 日本の『原賠法』(原子力損害の賠償に関する法律)についても、関わったそうそうたる専門家の顔ぶれをみてなお「安全神話」に立った時、事故の責任は電力会社だけが負い、その責任が無限でありながらというかその故にというか、極めて低い額の保険によって、国による関与を構造として前提する規定になったこと等を考えると、法律をつくることの深淵は、どこの国にもあるのではと思えてきます。
 面白いですよ、本書は。著者の最新作については、いづれ


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