いつものようで、新しい発見もあると良い、小田原と京都

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

立夏 第十九候『蛙 始めて鳴く』

 小田原の、いつも行く「御幸の浜海岸」の砂浜を歩いていたら、浜昼顔をみつけました。
 箱根山火口周辺警報が噴火警戒レベル2に引き上げられた日に、小田原に出かけていました。新宿駅小田急の窓口で情報を訪ねましたが、ニュース以上のことは分かりませんとのことでした。当然ですね。しかし、どこまでが噴火による被害の及ぶ範囲なのか、わからないのも現実なんでしょう。
 帰りに、地下街で、小田原のかまぼこ屋13店のすべてが揃っているという売店があり、小田原蒲鉾協同組合発行の「カマナビ」というパンフレットをもらい、早川駅近くにあるという「土岩商店」の蒲鉾を買いました。歯ごたえ、いわゆる「足」が強いという案内だったので。この「足」については、別のところhttp://d.hatena.ne.jp/kin-ichi/20150127でかまぼこの世界を取り上げてました。参考にしていただくとして、たしかに、歯ごたえがあり、気持ちがいいです。
 健康上も、経済的にも輸出期待など、かまぼこのこれからについては希望も持てるのですが、食糧自給の問題を考えると、つい最近、食料自給率の目標が引き下げられたことや、特に、漁獲量が激減している漁業で輸出を目指すとか、農業でも輸出産業を目指すなどというのは、統計的には、足りていない産業分野で、輸入に頼っている食糧を輸出するというのはいかなる逆説なのか、と疑問に思いました。そんなときに、漁業については、勝川俊雄著『漁業という日本の問題』を読んで、はたとひざを打ちました。

 本書を読むと、データは時に通念と異なる事実を示すものだということがわかります。たとえば、日本の漁業について、我々の持っている認識についても、そうした事態が当てはまりそうです。日本人が魚を食べなくなったことが日本の漁業の衰退の一因とする議論をときどき見かけますが、実は、日本人は、かつてに比べれば、魚を食べている、というデータがあるという指摘から、本書は始まっています。「食料需要に関する基礎統計」によれば、明治大正時代の日本人は、現代の魚ばなれした現代人の15パーセントしか魚を食べていなかった、というのです。
 また、日本では、「日本の漁業者は意識が高いから、乱獲などしない」ことになっています。しかし、現実はそうではありません。「筆者は、日本近海の水産資源が減少している最大の要因は、日本の漁業者による乱獲と考えています。持続性を無視した過剰な漁獲によって、海の中の魚をほぼ取り尽くしてしまったのです。」という文章を読みながら、漁業振興の勘どころはどこなのか、土岩商店の美味しいかまぼこを食べながら考えてしまいました。



◎『京都本』

 しかし、いつものまちで、いつもの風や匂いを感じると同時に、人は欲張りですから、新しい発見があると、もっとそのまちに魅力を感じるのでしょう。そういう感覚が特に試されるのが、『京都本』の世界でしょう。その意味で、京都のまち歩きで、新感覚の方向により強く針が振られているように思えるのが、中野弘子著『よそさんが心地いい京都 (散歩の達人POCKET)』です。



 まず、東京のある年齢から上の人にとっては、京都とのはじめての出会いは、中学校の修学旅行だったのでは。私はそうでした。『日の出号」で京都へ向かい、帰りは車中一泊、宿泊は『いろは旅館』、平安神宮で外人の少女に出会ったというのが思い出です。
 大人になってからは、下河原の『夜明け』で、文字通り夜明けまで飲み、『盛京亭』の炒飯と餃子をたべ、その一、二本前の路地奥の今はない『鳥羽』で夕飯を食べたり、『コロナ洋食軒』だったり、豪華にいけるときは鹿ケ谷の『鹿ケ谷山荘』の夕刻の露台で、巨大な鬼ヤンマの歓迎を受けたりでしたが、本書は、そういう流れとは違う、それでも同じ京都の案内本というところが魅力の本です。まあ、40から50代の人の感覚に合うのではとも思いました。
 私としては、そう、どこか一か所、本書から選んでいけたらいいなあ。


Amazonでどうぞ