冷たい玉露の誘惑にかられる、渡辺都著『お茶の味』

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

立夏 第二十候『蚯蚓(みみず) 出(いずる)』

 いきなり夏ですが、『立夏』という意味ではそういうことかな、と、納得できるようなものではありません。日の出の時間も早くなり、東の空はご覧のようです。
 今日は、「ブラジル・ピーベリー」ですが、焙煎が深いのも考えものです。私としては中程度が好みです。
 『お茶』については、お婆さん子だったこともあってか、子どものころから煎茶を飲んできました。しかし、お茶の世界も、日常的ではありますが、奥の深い世界です。特に日本茶については、正確なことを知らないまま、ペットボトルのお茶がお茶本来の味のものと、味覚が形成される時代が来るのかもしれません。最近の、季節感を出した多様な味のペットボトルのお茶も、ちょっと考えれば違和感がありますね。ビールの世界では、プレミアム戦争で出遅れたキリンの巻き返し策だと思いますが、クラフトビール風に「ご当地醸造」を訴求しています。季節感やご当地ものが、商品開発のコンセプトになっているようです。


◎京都本

渡辺 都著『お茶の味: 京都寺町 一保堂茶舗



 京都に行くと、たいてい立ち寄るのが『一保堂茶舗』です。適当な混み具合というか、いかにも日本茶の喫茶室という落ち着いていてにぎやかというところがいいですね。
 本書の著者は、一保堂茶舗の六代目をご主人に持たれています。茶舗の奥様にかぎらず、京都の老舗の奥様の書かれたものに良く出会います。なにか、京都の暮らしの時間が過ぎていく様を感じさせる文章に、不思議な安堵感というか、いかにもこういう暮らしが本当、と思えることが多いです。
 また、そういうことだったのかと再認識することも多々あります。たとえば、石臼を挽いて抹茶をつくるくだりでは「上の石を反時計回りに一秒に一回ぐらいの速さで回すと、三、四分かかってようやく石の外端から抹茶が出てきます。つまり、お薄一服分を用意するのにもけっこう疲れてしまうくらい石臼を回し続ける必要があるのです。花街でその昔、売れない芸妓さんには『お茶を挽かせて」いたことから、『お茶を挽く』という言葉にはあまりよい意味はなかったようです。」という文章を読んで、なるほどと思い、茎茶の『雁ヶ音』という名が、「雁風呂」の風習として津軽地方に伝わる、シベリヤから渡ってくる雁が波間で羽を休めるために使うといわれる小枝に由来するということに由来するとか。

  しばらく食器棚に置かれたままだった、むかし、京都に通い始めたころに、五条の『陶器祭り』で買った急須を取り出して俄かに使い始めました。それは、煎茶のおいしい飲み方として「くるくるっと揉みこんだ茶葉をお湯(時に水でも)に浸すと、『より』がほぐれて茶葉が広がり、そのとき茶葉に含まれている旨み成分がお湯のなかに溶けだしてお茶になります。ですから良い『急須』の条件とは、茶葉がしっかりと広がるための充分な深さと広さがあり、蓋の口径が広くて茶葉や茶がらの出し入れがし易いこと。さらに言えば蓋がしっかりと密閉され、傾けてもお茶が漏れだすことがなく、しかも注ぎ口からそこに伝って尻漏れしないことでしょう。」という文章を読んだからです。

 これまで使っていたのも京焼の良い急須だったのですが、茶がらの始末で、アミを使うようになって、茶葉が窮屈だと思っていたこともあったのです。現金なもので、口広のこの急須だとお茶がこれまでよりおいしく感じられるのですが。
 本書で教えてもらった抹茶と玉露の淹れ方をこの夏は試してみようと思います。


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