黄昏を迎えている大国はあるのか?

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

小満 第二十二候『蚕 起きて 桑を食む』

 風に雨を孕んで、次第に梅雨が近くなってきているのでしょうか。暑さからいえば、今日のほうがしのぎやすい感じです。
 今日の珈琲は「モカ」でした。煎茶は新茶になって、時に「うまい」と思える一杯があります。

 核兵器をめぐる国際社会の動向をみていると、果たして今日の国際社会というのは安定した基盤の上に形成されているのだろうか、と疑問が浮かんだりします。
 一国の興亡という、歴史や物語に登場してきた出来事は、現代世界ではどうなのか。国際社会が手放しで、平和と安定に向かっているなどと盲信しているのは、ひょっとすると、などと思ってしまいます。
 一国の興亡は、しかしながら、そこに暮らす人々の消滅を意味するわけではないことを考えると、現代社会でも、国名は変わらなくても、支配者や政権、政体の交代は起きていますし、帝国主義的な領土の変更も起きている現実を考えると、『三国志』の時代、興亡の物語にも多くの教訓がありそうです。

”黄昏”という時代状況の『三国志

 『三国志』と言えば、個人的には、あまり知られていないかもしれませんが、「ゴカンさん」という先輩です。それはさておき、『三国志』のラストシーンはというと、大概の人は、五丈原での諸葛亮公明の死去を思い浮かべるかもしれません。
 しかし、「諸葛亮の死によって『三国志』が終わったわけではなく、このあと四十年以上も続いていくのである。」し、「その後、蜀はどうなったのか。また、魏や呉はどんな運命をたどったのか。」ということについて焦点を絞って取り上げた本が、守屋洋著『黄昏三国志 孔明以後の英雄たち』です。




 諸葛亮公明が五丈原で陣没したあたりから、三国それぞれは、創業の時代から守成の時期に移りつつあった、と筆者は語っていますが、「見方によっては、ここからが『三国志』の本番と言えるかもしれない。」わけでして、登場する人物や組織は「守成の時代にどう対処したのか。そして、なぜ滅亡への坂道を転がり落ちていったのか。」を語る本書が、「黄昏」というタイトルをもつ意味がわかります。


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