おれたちの旅は、まだ終わらない

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

芒種 第二十七候『梅の子(み) 黄ばむ』

 確かに、ご近所の梅も、実が黄ばんできています。スーパーマーケットでも梅酒造りの広口瓶やらのセットが売り出されています。 
 今日の珈琲は「ニカラグア」のピーベリー、豆屋の若旦那ご推奨の豆だそうです。確かにおいしい。

 たち葵の花が、人気のない午後の道端に咲いているのに出くわすと、少年の頃、毎年過ごした田舎への旅を思い出します。小学校の高学年になると、当然のようにひとり旅だったように思いますし、大学入学の年には、仲間と私の田舎で、地引網など挽いたことを思い出します。今回は、ようとでも奈良でもない、自分にとっての旅そのものへのいざない、そんな本をご紹介したいと思います。
 

”鉄道の旅”とは「距離」である

 記憶に残る旅は、20代のはじめに、仲間といった九州の旅だろう。怖いものを知らないというか、あのころだからできたのだろうと思う。九州周遊券をもっただけで、周遊券の期限ぎりぎりまで旅した。
 旅のポスターということになれば、『そうだ京都、行こう』が味わい深いし、好いなあと思う。最近では、『行くぜ、東北』のポスターに魅かれています。中央線のポスターも。

 「鉄道の旅とは”距離”なんだと腑に落ちた。そして、旅情とは距離感が生むのだなと理解した。幼い子どもはじめて隣町に行ったときの感情にも、大人が何千㎞も離れた旅先での感情にも、普段の場所から距離を隔ててしまった寂しさが潜んでいる。」という著者の言葉に、私も、その寂しさの中に、漂う頼りなさというのも潜んでいて、これが、人を旅にいざなう衝動でもあると、逆説のようだが思えるのでした。
 という、感慨にどっぷり浸れる、込山富秀著『「青春18きっぷ」ポスター紀行』を読みました。



 さっきも言いましたが、先行する「京都」のポスター本もありますが、本書は、そこに行ってみようかというのではなく、旅への衝動を駆動する、というのが狙いのようです。
 メインコピーのコンセプトの変化は、センチメンタルから情念へ、そして商品企画を意識して、やがてコピーがつぶやきのようになり、写真が、人が少し存在感に勝っていたことから、風景と分け合ってバランスをとり、それが記憶の底で旅心をざわめかすという、こんな景色もあったのですか、という驚きにまで発展しています。
 本書で、行ってみたいところを探すというのは、案外少ないでしょう。本書のポスターで感じた旅情を味わえる、自分の旅に出よう!と思うことが本書を読むことではないかと思います。日常の確かな暮らしに生きている中で、漂泊する寂しさ、日常から遠く隔たった感覚が、眠ってはいても亡くなってはいないことを、本書の空が広い景色をみることで、自分のなかに発見すると思いますよ。

 ところであなた、「青春18きっぷ」には年齢制限がないことを知っていましたか?本書を読むまで、私は知りませんでした。
 著者も言っています。「これだけ有名な切符になってもまだご存じない方も多いのはこのネーミングの宿命だ。」



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