教科書に取り上げられた和歌や俳句を並べて見えてくるものとは?

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

白露 第四十四候『鶺鴒(せきれい) 鳴く』

 朝方、西の空は青く高く、いかにも秋らしかったのですが、いまでは、少し見えていた雲がいつの間にか大きく張り出して、空模様は、雨の気配を感じさせてきました。
 今日は、『ブラジル』です。農園名は忘れてしまいました。



新潮ことばの扉 教科書で出会った名句・名歌三〇〇 (新潮文庫)石原千秋 監修)




「自然」から「ひとり」への流れをおし進めたものは?


 「誰が読んだか知らなくても、心が、体が覚えている」(まるで、月光仮面のようです)「誰もが教室で親しんだ俳句、和歌、短歌をそれぞれ百、集めてみるととても愉しい本になりました。」と裏カバーにあり、表紙の文字を見て、「おお、コウガグロテスク」ということで、無防備のまま本書を手に取ると、思わぬ火傷をすることになるかもしれません。ここには、もうひとつの歴史認識、それも、戦後などという短いスパンではなく、万葉の昔からの日本文化の歴史認識の問題とでもいうべきものが横たわっていたのでした。
 監修者による巻末解説に、「このアンソロジーをじっくり読んでいたら、ある仮設めいたものが頭の中でまとまってきた。」とあり、その仮説というのが、日本の「短詩型(和歌・俳句)の歴史は、『自然』から『歴史』へと変遷している」というものです。そして、事実がそうでないなら、その流れをつくり推し進めてきたのは、教科書に採択された、和歌や俳句の積み重ねということになる、というものです。
 日本人の伝統的な文芸である、和歌や俳句において、学校で何を読み、覚えてきたのか、これはなかなかに深い闇を感じさせます。「自然」から「ひとり」への流れは、本来緩やかなものではあるのですが、いつの時代にも異端の先駆者はいるようで、監修者によれば、「自然」の時代の万葉集にあっても、大伴家持の、いわゆる『春秋三道』の異様さを指摘しつつ、「つなげられるはずもない形で自然と心が接続されている。それがこれらの歌をより異様に見せる。それに「自然」という思想の強度が高かったこの時代に、「ひとり」を歌に詠んでもいいと考えた表現者としての感性は特筆に値する。」のであり、さらに、「こうしてみてくると、俵万智の圧倒的な『新しさ』がよくわかる。俵万智は「ひとり」という思想をしなやかに拒否したのだ。」という解説を読むと、そういえば、中学時代の教科書にこの俳句あったよなあ、という、牧歌的ともいえる感想ですまないことがよくわかります。
 そう、俵万智の歌には、「あなた」が登場するのですから。





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