思い出はいつしか勝手に思い込んでいるものなのかもしれない

ぺんぎん堂の飯島です。意見は私個人のものです。

清明 第十四候『鴻鴈 北(かえる)』

 子どもの頃、早朝に、西から東へ、おそらくは、新宿御苑を目指していたのではないかと思える、百舌鳥と思しきおびただしい数の小鳥が、鳴きながら空を横切り、飛んでいきました。夕方には、東の空から西の空に、朝とは逆に飛んでいった光景の記憶があります。幼馴染のまあちゃんの家の前で空を仰いで見た光景です。
 今となっては、本当のことであったでしょうが、夢の中のことのようにも思えます。群れをなして生きものが空を飛ぶ光景ということでは、千葉県の母の郷里の海岸近くの丘で見た、赤とんぼの群れもそうですが、不思議な景色として、夢のようでもあります。

 さて、今日の珈琲は「エチオピア・イリガチョフ」です。確かに、口に含むと苺のような香りと味わいがあって、珈琲もフルーツだということを実感します。

 珈琲好きだった高倉健さんのことを合わせて思い出し、今日の一冊は、こちらです。

高倉健 メモリーズ (キネマ旬報ムック)




 高倉健さん(勝手にさん付けで呼んでしまいますが)ということになれば、不自然なほど感情移入してしまう世代なので、勘違いしてしまうのは、高倉健さんが映画俳優だったという、基本を忘れて、妄想に近いイメージを作り上げてしまうことです。まあ、あの時代を考えれば、納得できることではありますが、他のことでは醒めた感情に落ち付いているのが大部分でも、いまだに、その魔法が解けていないのが高倉健さんについてではあるのですが。
 さて、本書によって、高倉健さんが俳優であったこと、その意味での深掘りを知るということはその通りだとして、何にせよ、人は仕事をして、稼いで生きていくという、基本から逃れることはできないということ。そして、自分自身に対して、自らを省みて恥ずかしくないように努力し続ける姿勢を堅持すること。こういう立ち位置を、いくつになっても持ち続けることの格好よさを、ちょっとでも自分の中に置いておくことの大事さに気がつくという快感を、遠ざかる背中の唐獅子にむかって、ちょっと手を挙げてあいさつして、味あうという読み方ができるのも、あの時代を生きたものの特権かもしれません。




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