逝く夏の物語、『東京物語』

ペンギン堂の飯島です。意見は私個人のものです。

大暑 第三十五候『土 潤(うるおうて) 溽暑(むしあつし)』

 まさに夏らしい快晴の朝空です。明日は都知事選挙の投票日、すでに期日前に行っているので、余裕です。東京都をどうするのか、そのことにストレートにコミットしてほしいです。

 それはともかく、旬のさかなはコハダです。そういえば、鮨も食べに行っていません。昨日は何年振りかで海老の天麩羅を食べました。食事制限とまではいっていないのですが、脂肪分に気を付けるように言われたことがトラウマで、豚カツと天麩羅は久しく食べていませんでしたが、天麩羅は自然に体が欲した感じでした。まあ、とはいってもまたしばらくは食べないでしょうが。
 今日の珈琲は「ドミニカ」でした。軽快な感じですが、薄さはなく、おいしくは淹れられました。海洋性とでもいうのでしょうか、そんな感じがします。

 さて、朝の空を見ていて、ふと、「きれいな夜明けじゃった。今日も暑うなるぞ」という、『東京物語』ラスト近くの、笠智衆の台詞を思い出しました。
 ということで、南シナ海ではなくて、今回は、本書を取り上げました。


「東京物語」と小津安二郎: なぜ世界はベスト1に選んだのか (平凡社新書)梶村啓二 著)



 「東京物語」、なぜこの映画にはこのタイトルがつけられたのでしょうか?映画は東京という都市については、ほとんど何も語ってはいません。しかし、両親が子ども達に会いに行く都会は、やはり、東京でなければならないし、帰途、途中でよるのが大阪というのも、そうでなければならない、その時の日本の現実だったと思います。戦後、そこに送り出した人々も含めて、都会に暮らす人々の物語だからです。
 私も、今回を含めて、5回は「東京物語」を観ていますが、本書を読んだ後に、もう一度見ると、見逃していたものがいかに多かったか思い知らされました。人は、見たいと思うものしか見れない。そこで、本書の、「東京物語」は、夏の物語でなければならなかったことを含めて、様々な、ごく普通のオクターブで語られる指摘は、そうした呪縛を取り去るのに効果的なのです。
 それと、「伝統的感覚に根差し、抽象の次元にまで高められた生理的美感は生き残る」のに対して、「対抗概念的に頭で構想された革新はあっという間に古びる」のであり、それが「残酷な真実である」というのは、昨今の日本の状況を思い出して、映画のこと以外のことで、うなずいてしまうのでした。
 小津映画を見ると、いつもそのラストシーンで、声高でも、大仰でもない、諦念を感じざるを得ません。悲劇というのではあまりに自然に、しかし、痛切な、静かな、「そういうもの」として受け止めざるを得ないもの。
 しかし、明日もまた、日は昇るのであり、生きていくことが続いていくのです。苦さが、時に、おいしさに欠かせないように。
 なにか、そうだったのかと、形が見えなかったものを明瞭にしてくれる一冊でした。



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